水のように

「私は水である」。
幸、不幸に関わらず、さまざまな事象に直面したとき、
この言葉を反芻する。
良いことがあった時には、心を静めるために。
望まないことがあった時には、流れに逆らわないために。
水は常に無色透明、無形。ゆえに常にバイアスから解放されている。
気ままに流れていれば、決して淀むことはない。
人の渇きを癒したり、激流で人の命を奪ったり、
容れ物によって自由に形を変えられたりもする。
優しさも、厳しさも、柔軟さも、まさに水の心ひとつである。
思い起こして、社会人初日から現在に至るまで、特定の師というものをもたなかった
私にとっては、この水こそが理想であり、師なのである。
(余談だが、企業研修というものすら一度も受けたことがない私が今、企業のお客さまに
ブランディングや営業の研修の依頼を頂いているのだから、わからないものである)
水はあらゆる場所を流れる。ゆえに、常に縁を楽しむ。
穏やかな流れの中で誰かと出会い、癒し、そして別れるだろう。
急勾配を流れ、力を蓄え、激流をもって戦うべき時がくるかもしれない。
一旦ひとところに留まって、容れ物に合わせて面白い色や形をとるのもいい。
もしも淀んだら、また流れればよい。
きっとまた新しくなれる。
水の通る道は千変万化であるが、岩に当たった水が右か左か、即座に分かれるように、一様にどの水にも悔いがない。
ゴールに着けさえすれば、自らの通ってきた道がさかのぼって正解になることに気がついているようだ。
ゆえに一瞬一瞬、良いときも悪いときも、プロセスを思う存分に楽しむ。
決して力まず、逆らわず、急かず。ゆえに40歳を待たず、生まれたときから不惑である。
(孔子は40歳で人間が惑わなくなると言った)
「不惑」の実体とはおそらく、どんな悪手や後悔も、自分次第でこれから正解にできることに気づくこと、そして、それを必ず実行するという強い覚悟なのである。
だから、大きな岐路に直面したときこそ、水、水、と自らに言い聞かせると、体から余分な力が抜け、視野広く、森羅万象を師としながら、
新しいアイデアの一つでも浮かんでくるような気がしてくるのである。
「水のように」。
こんなふうに考えていくと、ああそうかと、改めて人生が自由であることを再確認できる。
肩の力を抜いて人生を楽しんでみようという気持ちになる。
そして、願わくば、その道すがらで誰かを育むことができればと期待するのである。
ところで、水はいつか火を求める必要があるのかもしれない。
水はそれだけでは、暖かく、そして熱くならない。
私は水である。